私が結婚して2児の母になった時!すでに少子化と世間で言われてた

バブルが崩壊したのは、平成3年(1991年)~平成4年(1992年)にかけてのことでした。今まで私はパートで働いてきましたが、バブル崩壊後は、人員削減のため今まで勤めてきた会社をリストラされてしまいました。

その後は仕事を探してもなかなか見つからず、仕方なく私は専業主婦となりました。すでに結婚して3年の月日が流れていました。結婚したばかりの時はあんなに日本中が好景気に包まれていたのに、わずか3年の間で不況になってしまうとは、何と言う極端な変わりようだったか、今でもはっきり覚えています。

仕事が見つからないなら、そろそろ子供を産んでもいいかな?それが潮時かな?と考えました。そして平成5年(1993年)、長男が誕生しました。長男が誕生したこの夏は異常な冷夏で、梅雨明け宣言もないまま夏が終わり、国産の米は日照不足により、不作に終わりました。

翌年平成6年(1994年)は米の不作により、「ブレンド米」騒動がありました。長男誕生時は農作物の不作や、景気は冷ややかな状態が続き、何だか先行き暗いような話題が多かったです。

そんな中、私が長男を出産し、母親となった時にすでに「少子化」と言った言葉が日常的に多く聞かれるようになりました。長男が生まれた平成5年(1993年)の出生率は、1.46%で、平成元年(1989年)の1.54%を更に下回ったのです。いかに平成に入ってからどんどん子供の数が減っていると実感したのは、やはり私自身長男を産んだ後でした。

その3年後の平成8年(1996年)には長女が誕生しました。この年の出生率は1.43%でしたから、本当に少子化が進行し、深刻な問題になってきました。

日常生活でも本当に少子化が進んできたことは沢山実感しました。長男の場合、近所に遊び相手になるような子供が1人もいなかったことです。私の子供の頃の様に、近所に幼馴染と言えるような子供が遊んでいませんでした。

長女にしてもそうです。やはり近所に同級生はいませんでした。幸い娘の場合は、1つ年下の女の子の遊び相手がいて、その子が唯一の幼馴染です。

私の2人の子供達が幼稚園に入園して、やっと同じ年の友達が出来たのです。やはり当時から子供って本当に減ってきて、いないんだな~と感じておりました。

やはり私の家庭の経済事情を考えますと、とても3人目も産みたい気にはなれませんでした。私の子供達が小さいころからもう1人っ子家庭が増えてきて、やはり経済事情からそんなに子供を産めないと意見する人達が多かったです。

バブル崩壊して、この不景気な世の中…リストラされたり、収入が減ったりするなどまさしくこのような状態ではとても子供を産める状態ではないと言った理由から、夫婦2人だけの世帯も増えてきました。

それに少子化が進んできたので、同じような小さい子供のいる家庭が少なくて孤立する母親も増えてきたのも、この時期からです。社会から取り残されたようなあの何とも言いようのない疎外感。私でもやりきれませんでした。

世の中こういう例が多くなってきたものですから、少子化と言われても仕方がなかったと言えます。

1980年代のバブル絶頂期から崩壊!ますます少子化が進んだ?

1980年代以降、日本はバブル絶頂期の時代を迎えます。特に私が新社会人となった昭和60年以降、世の中の景気は驚くほど良く、就職先もすんなりと決まりました。

特に銀行などの金融関係では、定期預金など預けると利子が6%つく高金利時代で、ボーナスなど多額な金額はすぐに銀行にて定期預金に預ける人が多かったです。まさしく貯蓄するにはもってこいの時代でもありました。

本当にバブル絶頂期と言われたのは、昭和61年(1986年)~平成3年(1992年)の約5年間で、世界中が好景気に満ち溢れていました。そのバブル絶頂期の平成元年(1989年)に私は結婚し、家庭を持つようになりました。

ですがその好景気を見計らうかの様に、女性がどんどん外で出て働くことが多くなり、出生率もどんどん下がっていきました。結婚しても家庭に完全に収まってしまうよりは、自分も働きべきだと考える主婦が多くなってきました。

そして昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて更に出生率が下がってついに1.57%にまでになってしまいました。私が結婚した当初から、夫との両親と同居する世帯が減ってきて、核家族化にますます拍車がかかってきたのも平成に入ってからと言えます。

私も正直結婚したての頃はすぐに子供が欲しいとは思わず、働きたいことを優先させていた1人でありました。それに仕事しながら暫くは夫婦2人だけの生活も楽しみたいと思っていました。

ですから世の中子供の数が減っていることなど、全然分からず寧ろ他人事の様に思っていたのです。今思い返しますと、私が結婚する前後の少し前から母から「子供の数が減ってきた。」と聞いた覚えがあります。

ですが私にはまだ子供を産みたい考えがなかったので、当時は真剣には聞いていませんでした。

好景気が続いていただけに、働くことが面白くて、私は独身の延長のような形で新婚生活を送っていたんですね。平成に入ってから出生率が「1.57ショック」と言われた時期は、もうすでに私の年代は子供を産む適齢期に入っていたわけです。

結婚をすれば、周囲から「子供はまだか?」と私も言われるようになり、少なからずプレッシャーみたいなものを感じていました。さすがに私や夫の両親などは早く孫の顔見たさに会うたびにそのことを決まり文句にしていました。

ですが私の母の様にず~っと専業主婦の人生を送るのも何だか…と思っていましたので、バブル絶頂期こそ働いて、少しでもお金を貯めることが出来るこの時期を逃したくないって理由から、どんなに子供のことを言われようが、全然産む気にはなれませんでした。

世の中も結婚よりも仕事重視の女性が増えてきたせいで、少子化が進んだのも当時からありました。

ですが平成初期はまだ現代ほど少子化については深く取り上げることはしていませんでした。私の年代層が一番の働き盛りの時期に突入してきたこともありまして、ますます仕事に充実性を持っていた人達が多かったです。

働ける喜びを知った女性が多くなり、仕事優先で子供を産むのは後回し傾向が根強くなってきました。そんな中で少子化はもう確実に始まっていました。

そして好景気は終わりを告げ、バブル崩壊となり、日本の雇用情勢などが深刻になっていきました。

よく調べてみると?もう少子化は昭和50年代から始まっていたのだ!

第2次ベビーブームでは、年間200万人以上の子供が誕生し、このままいけば第3次ベビーブームが到来するのではないか?と期待されていました。

ですが子供の出生率の上昇は第2次ベビーブームをさかえに、昭和50年代に入ると年間の子供の誕生数は200万人を超えることがなくなり、減少傾向へと突入していきました。昭和50年代は私は10代でしたので、世の中子供の数が減りつつあることなどまだ知る由もありませんでした。

ですが小学生から中学生になった頃から、同級生の中で両親が共働きしていることをよく耳にすることが多くなりました。部活で帰っても両親はまだ仕事中で戻っていなくて、一人で夕飯を食べていたとも聞いたことがあります。まして下に弟や妹がいると、保育園や児童館に預けられていたケースも多々ありました。

私の両親は元々自営業でしたから、母は父の仕事の補助と言うことで、専業主婦を続行していましたが、何故か同級生の大半が共稼ぎだった記憶があります。中学3年ともなれば、翌年は高校進学を控え、まして私立高校となると公立の倍以上の学費がかかるので、もう専業主婦をしている余裕がなくなりつつある時代になってきたのでしょう。

今思えば私の中学~高校時代から更に共稼ぎの両親が増えて行った形になりました。やはり子供に相当の学費が必要とされ、母親までもが外に出て働く傾向にありました。

よくテレビなどでも、公立高校と私立高校の学費を比較する番組などもありましたし、大学に進むとなるとまた4年間で総額いくらかかるのかと言ったテーマの番組も当時から放送されていました。

そうなんです!私の高校時代からいい会社に就職するには、高学歴であることが条件とされていました。ですから私立中学に進学した同級生もいました。まさしく学歴重視の時代だったとも言えます。

ですから昭和50年代からすでに少子化が進み始めたのは、子供を少しでもいい学校に入れるために両親が頑張って働き、共稼ぎ世帯が増えたために沢山子供を産める状況ではなくなったからです。

その状況はますますは続き、何とか年間の子供の誕生数も150万人保ってこられましたが、ついに昭和59年(1984年)には、150万人を下回り、ますます少子化が進む羽目となっていきました。

昔とは違って、1人の子供に大学を卒業するまでの学費がかかるので、家計に大きく負担が出るようになったこともあり、それが少子化を進めた原因と言われています。そしてますます核家族化に拍車がかかり、これも少子化の原因の1つとなってしまいました。

もう私の両親世代から、夫との両親との同居が減りつつありましたので、年がたてばたつほどに夫婦2人だけでの暮らしは当たり前となり、そして子供を産めば、家事や育児全般は母親の役目と言った時代に変化してきました。

ですからずっしりと既婚女性には責任が重くのしかかり、子沢山への憧れは薄れていきました。

時代はとても便利になりつつあっても、子供に沢山学費がかる状況では家計がますます圧迫されることで、1人っ子の数もどんどん増えていました。現代ではもう全然珍しいことじゃなくなりましたが、昭和50年代ではまだまだ1人っ子と聞くと世間ではよくないイメージがありました。もう当時から子供は1人でいいと言った考えの既婚女性は増えていたのです。ですから少子化が進んできたのも仕方のないことなのです。

世の中が子供にお金をかけるような状況に変化してきたのですから。

第2次ベビーブーム!この時代の両親は団塊の世代の人たちなの?

戦後の第1次ベビーブームで出生率がぐ~んと上がり、日本の経済成長はどんどん発展していきました。ですが第1次ベビーブームの後は出生率は下がっていきましたが、昭和40年代後半にはまた出生率が上昇し始めました。

それが第2次ベビーブームと言われました。第2次ベビーブームの世代は昭和45年(1971年)~昭和49年(1974年)生まれの人達です。まさしく現代では働き盛りの年代です。

ところで第2次ベビーブームの人達の両親はどんな年代か、アナタは分かりますか?実は第2次ベビーブームを引き起こした年代はあの戦後直後に生まれた第1次ベビーブームの「団塊の世代」の人達です。

昭和40年代後半、団塊の世代の人たちは成人して結婚適齢期を迎えたわけです。ですから団塊の世代は戦後一番人口の多い年代でもあるので、その人達が結婚し、子供を設けたことにより、第2次ベビーブーム旋風が巻き起こったのです。

ですから団塊の世代の両親を持った子供達は「団塊ジュニア」と呼ばれています。戦後初の世代が今度は親になる年齢になってきたわけです。戦後生まれが子供を産むようになったのが団塊の世代が初になります。

団塊の世代が一番人口が多ければ、それだけ子供の人数も増えたんですから第2次ベビーブームと呼ばれたんですね!当時私は小学生でしたので、第2次ベビーブームとかって余り気にはしてないと言いますか、理解出来ていませんでした。

そういうことでは団塊の世代の人達は第2次ベビーブームを引き起こしたことにより、昭和40年代後半当時は世の中に貢献したってことがありありと分かります。

あの頃は本当に子供の数が多くて、学校の教室が足りないくらいでした。1クラス40人で、男子、女子共に20人ずつの公平な体制でした。

それに小学校時代、地区ごとに通う所は決まってましたが、1ヶ所に受け入れる小学校が子供の人数が余りにも多すぎて分校になってしまう事態も起こりました。今考えるとその団塊ジュニアと呼ばれる子供達が圧倒的に多かったから分校されたのかもしれません。

児童の入れる教室が1つの小学校ではもう満員で対処しきれなくなったからです。分校された後、丁度児童の人数の割り振りは上手くいくようになりました。当時の先生も大変な思いをしましたね。

特に私の住んでいた地域の子供会は子供の数が多いがために、子供会まで2つに分ける羽目になってしまった覚えがあります。分けた後は西子供会、東子供会と名前まで付けられました。

子供会の役員をやっていた人達がそう決めたのです。1つでは子供会の役員は足りませんし、子供の数が多すぎて面倒見られないと言った理由からでした。

昔は結婚は20代前半までにするのが当たり前で、母親も早く子供を産んでいました。結婚=子供は日本人として当たり前の風習だったのです。

その団塊ジュニアと呼ばれる人達も、現代では働きさがりの大人になりました。結婚して子供を設けて親の団塊世代もおじいちゃん、おばあちゃんになりました。

本当に時の流れは早いものです。

昭和41年丙午生まれ!どうしてこの年だけがくんと出生率落ちたの?

日本には12種類の干支が毎年巡り巡って回っていることを、皆さんはご存知ですよね?一番最初の干支がねずみで、最後はいのししですが、これだけなら何とも微笑ましい感じはします。

ですが私が印象に残っているのは、実に悪い縁起を担いだ干支だったために出生率が一時的にがくんと落ちた年があることを母から聞かされたことがあるのです。日本人は昔からよく縁起を気にする所がありますからね。

それは昭和41年(1966年)、この年の干支は馬だったのですが、実はこの年の馬は非常に縁起が悪いと言われた年でもありました。ちなみに私自身は昭和41年生まれではありません。

母から聞いた話によれば、「丙午」は大昔から火に大いに関係があり、この年に生まれた子供は将来不幸になる、結婚した女性は気性の激しい人となって、夫をダメにしてしまうから産まない方が無難だとか言ってましたが…!!

子供を産むのに、そんなに当時は「丙午」は非常に縁起が悪いということで敬遠されてたんですね。

じゃあ実際に丙午で生まれた私のいとこや友人たちはどうかといいますと?全然気性の激しい女性などいませんし、結婚して夫をダメにしたりしたなんてこともありません。

只昔のそういった縁起の悪い言い伝えって何処までも残るといいますか、鵜呑みにしてしまう日本人って本当に多いんですね!縁談でも「丙午は嫁として受け入れたくない」と拘る女性が多かったのも確かに言えることです。

ですから世間からそんなことを言われたくないことから、丙午だった昭和41年は出生率が25%も落ちたんです。悪い縁起を担ぐことで、その年は子供を産まないなんて何だか当時としては、あまりにも理由が単純すぎたとしか思えません。

だいたい丙午で生まれた子供全員が不幸になるなんて、一体何処から出た話なのでしょう?これはある書物がもたらしたことです。井原西鶴原作の「好色五人女」の中に登場する「八百屋お七」が丙午生まれで、好きな人に逢いたい一心から、放火したのが理由だとも言われています。

「八百屋お七」は小説の中では悪女扱いで、その為に丙午生まれの女性は気性が激しく、夫をダメにする何も根拠のない迷信が飛び交ったわけです。

これでは「そんなの本の読みすぎ!」となってしまいますよね。とかく悪い縁起に振り回されやすいのが日本人の特徴でもあり、根強く残っていたとは本当に困ったものです。

昭和41年という年は丙午の実に縁起の悪い理由から、子供を産みたくない女性が多く、それで避けていたがために、出生率が一時的にがくんと落ちた原因を作ってしまったのです。

それが将来の縁談にまで影響を受けるなんて、余りにも縁起を担ぎすぎましたね。まあ、私自身も2人の子持ちですので、当時の人達の気持ちも分からなくはないですけどね。丙午は60年に1度回ってくるということですが、昭和41年の前回の丙午は調べてみたところ、明治39年(1906年)でした。やはりこの年も出生率はがくんと下がっていました。

今度丙午が来るのは、2026年です。さすがに現代は縁起を担ぐなんてことは少ないですが、その理由から出生率を下げるなんてことはもうしないことですね。

母の子育て時代から!すでに子供を産む人数が減っていたのでは?

私の両親が結婚したのは、昭和39年の東京オリンピックの開催された年でした。そして私、妹を設けました。

私の両親は、それぞれの実家から出て、独立して一軒家に住み始めました。父は次男だったため、長男みたいに家を継ぐ必要がなかったからです。

勿論大家族ではありませんでしたから、母1人で家事や子育てをこなしてたわけです。でも母が私を育てていた頃から、すでに「核家族化」が始まっていたと言えるのではないでしょうか?

私自身、物心ついた時から祖父母と同居だったわけではありませんので、日曜日や夏休み、冬休みなどに祖父母の所(母の実家)によく遊びに行ったものでした。母の実家では、母の兄(私の叔父)が長男でしたので、家の後を継いでいました。祖父母とは同居であり、まさしく大家族でした。

私が子供時代の時はそんなに出生率のことなど全然考えたことはありませんでしたが、この頃近所でもそれぞれ子供の数は2~3人の世帯が多かったです。親世代の様に5人以上の兄弟はいるって所は1件もありませんでした。

ですから母が私を育ててた時代から、子供の数が減っていたのではないか?と思っていました。でも昭和40年代以降の出生率は下がってたわけではなく、寧ろ上昇傾向にありました。

ですが出生率が上がってる割には、親世代から子供を産む人数が徐々に少なくなって来たことは確かに言えることです。その理由は何といっても、大家族から核家族化に世帯が変化しつつあったからです。

両親や祖父母世代の様に、沢山兄弟がいて、大きい兄や姉が小さい弟や妹の面倒を見るのが当たり前の時代はもう終わりを告げていた、とも言えます。独立した世帯ではとても子供を沢山産める環境ではありません。それは現代でも言えることです。

おじいさん、おばあさんがいない世帯では、子育てはどうしても母親1人に重く責任がのしかかってきます。まして母の若い時代は現代の様にとも稼ぎという訳にもいかず、殆どの世帯が母1人で子育てや家事をこなしていたのです。

昭和時代の父、母は「男は外で仕事、女は家庭を守る」のが常に風習でしたからね。

大家族でなくなると、とたんに子供を産む人数が減ってもおかしくないと言えます。誰の助けも得られない訳ですから、他のことにも手が回りません。それは当然のことです。

でも兄弟数が少なくても、近所の遊び相手には困りませんでした。外に一歩出れば、誰かしら遊んでいましたからね。私の子供時代は本当に幼馴染が多くて、毎日学校が終わってからも近くの公園で遊んでいたものです。

私の幼馴染たちも殆ど2人、3人兄弟、姉妹が多かったです。一番多くて4人の所がありました。1人っ子はいるにはいましたが、数にしては少なかったです。

ですから私の親世代から子供を産む数が減ってきたのは、大家族から独立して夫婦2人だけの世帯が多くなって来たからです。

それをきっかけに、どんどん核家族化が進みましたが、出生率は上昇していきました。

戦後の日本の経済成長!その割にはすぐに出生率が下がっていた?

太平洋戦争で、すっかり焼け野原になった日本ですが、その後の復興は見事なものでした。日本人は元々働き者なので、どんなに貧乏のどん底になっても這い上がろうとする力を持っていました。

ですから戦後は一生懸命働き、新しい建物がどんどん増えていきました。日本全国の戦争敗北からの立ち直りは見事なもので、昭和28年以降はテレビが登場し、生活の中で娯楽を楽しむことも出来るようになりました。

昭和30年代になると洗濯機や冷蔵庫、掃除機など主婦には欠かせない家庭電化製品が続々と登場し、ますます生活面でも便利な時代へと発展していきました。

そして新幹線開通、昭和39年には東京オリンピックが開催されて、日本の経済成長は驚くように上がっていきました。昭和40年代に入ると、色んな流行まで出るようになりました。ビートルズ来日、ミニスカートなどなど日本人をワクワクさせるようなことが多くなりました。

そんな中、出生率を調べてみますと…第1次ベビーブームをさかえに出生率はもうこの頃から徐々に下がり気味傾向にあったのです。昭和20年代後半にはもう第1次ベビーブームのような出生率の上がりの巻き返しは見られることなく、どんどん下がっていたことが分かりました。

ですがこの時代は出生率が下がったからと言って、そんなに深刻な問題としてとらえてはいませんでした。その理由は日本の人口が上昇傾向にあったからです。そして昭和41年(1966年)にはついに1億人と突破し、今でもその数を保っています。

それに働き手の若者が多く、景気もそれなりによかったのです。

出生率が下がっていても、高齢者の数は当時はまだまだ子供の数を下回っていました。
それに昭和30年代と言えば、私の父や母が丁度結婚する年齢になってきた時期でもありました。

父や母が成人してもまだまだ兄弟はおのおの多かったので、結婚して子供を設けても、祖父母からしてみたら、孫の人数もそれなりに多かったわけです。

それに一度は下降気味だった出生率も昭和30年代後半から巻き返しの兆候が見られました。ですが第1次ベビーブームのような数には至りませんでした。そうなんです、私の両親世代がどんどん結婚して、子供を設けるようになったからです。

まだこの時代は1つの家に大家族として住む風習はありましたから、田舎へいくほどその世帯数は多かったです。ですが昭和38~39年ごろにかけて、若い世代が集団就職として、田舎の実家を出て、都会へ働きに行くことが多く見られました。

この時代の若者たちは都会に憧れるようになり、田舎を出て行くことが多くなりました。そしてそのまま成人し、結婚して都会にとどまっていく例もどんどん出始めてきました。それだけではありません。

田舎で暮らしてなくても、私の両親の様に、父は次男でしたので、実家を出て独立して母と結婚して暮らすようになったケースも多くなりました。長男の場合は家を継ぐことで、お嫁さんをもらって、そのままとどまることは当たり前でした。

ですから父方、母方の親戚など兄弟が多かったため、全員結婚したので皆子供がいましたから、とても出生率が一時下がったとは思えませんでしたね。

祖父母にしても、孫が多くて幸せに感じてたことは間違いありません。まだこの時は「少子化」なんて言葉すら存在はありませんでした。

戦後の第1次ベビーブーム!それが団塊の世代と言われる人達だ!

戦後日本はどんどん復興へ向けての再出発をしました。貧乏のどん底に落ちても近所の人達、家族、兄弟でひたすら助け合い、戦争に生き残れた喜びをかみしめてどんなことでも一生懸命取り組みました。

そしてどんどん復興進んでいきました。戦争には負けましたが、立ち直る日本人のど根性は素晴らしいものがありました!

それは終戦から2年後、第1次ベビーブームが訪れたのです。

戦争で沢山の人が命を落としたため、明治時代終わり頃世代、大正生まれ、昭和初期生まれの男性がどんどん結婚していきました。それで一気に子供を出産する家庭が多くなりました。

終戦後の混乱期に生まれた子供達が、今の「団塊の世代」と言われる人達です。しかし前々から団塊の世代とよく耳にはしてましたが、何故終戦後に生まれた人達をそう呼ぶのでしょうか?

それには作家の堺屋太一さんの小説名で「団塊の世代」がありました。それが由来の理由とされています。では具体的に団塊の世代とは昭和何年生まれの人達を指すのでしょうか?

詳しく調べますと昭和22年(1947年)~昭和24年(1949年)生まれが団塊の世代と呼ばれています。この3年間生まれの人達は約800万人です。ですから1年間に約260万人生まれていたんですね。

ですから団塊の世代の人たちが生まれたことによって、日本の人口が一気に増えて行きました。戦争で大勢の人達が亡くなったにも関わらず、大勢の若い男女が婚姻届けを出し、そして出生届を出したお蔭で、ますます日本の復興は進んでいきました。

昔から日本人は結婚したら、子供を設けるのは当たり前とされていましたから、終戦後は特にその風習が特に強かったと言えます。戦争で何もかも失くした分、子供を産むことで人口を増やしていこうといった思いがあったのでしょう。

そういえば戦争の悲惨さを知らない最初の世代が団塊の世代の人達ですね。それに戦後に生まれた子供の数にしても、総人口としてまとめるとダントツ団塊の世代が一番多いです。やはり終戦後の男女の結婚と出生数の急な増加で多いのです。

しかしこの団塊の世代を産んだ当時の両親は凄かったんですね。戦争で生きるか死ぬかの瀬戸際だったにも関わらず、結婚してどんどん子供を設けて行ったんですから。

でもこの団塊の世代の人々こそが戦後の日本を支えてきたんじゃないかと私は思います。
私の親戚にも団塊世代の人はいます。戦後のゴタゴタ時代に生まれた人なので、何処か独特な性格があるんですね。まあ色んな性格の人がいるのは当然なんですが。

知り合いにも同じように団塊世代はいます。やはり働くことには積極的で、リーダー的な存在が多いです。それに私と同じ戦後生まれのせいか、話しやすい人が多いのです。それに何でも相談できるので、頼りになります。

この時代に生まれた人達も割と兄弟は多いです。3~5人くらいが平均でしょうか。やはり兄弟が多いと、いざという時はお互い助け合えますし、絆も深いので、本当にいいな~って思います。

大きい兄や姉が小さい弟、妹の面倒を見る風習はこの団塊世代の人達で最後ではなかったんじゃないかと思います。

1つの家に大家族で暮らす風習は日本の伝統でありましたが、それも徐々に減り始めたのは日本の経済がどんどんよくなりつつあるときから始まったのではないでしょうか?

母の告白!終戦直後、無事戦争から戻った男性が次々と結婚!

昭和20年(1945年)8月に太平洋戦争が終わって、すっかり焼け野原になった日本はまさしく貧乏のどん底でした。住む家も食べるものもなく、それでも何とか家族や近所の人達と力合わせて生きて行くことに力を注いでいました。

そして終戦から半年~1年後徴兵制度で、戦争に送りだされた若者が次から次へと故郷に戻ってきました。勿論無事に戻ってきた若者の家族は大粒の涙を流して、お互い戦争を乗り越えて生き伸びたことを喜びあいました。

母はこの頃はまだ小学生でしたが、戦争の恐ろしさはよく覚えています。徴兵制度で若い男性(18歳~40歳対象)が多く戦争に取られて、悲しんだ家族を多く見た記憶もあります。

徴兵制度のために戦争に行った若者が戦死した数だって半端な数ではありませんでしたし、一般市民にしても爆弾の犠牲になって焼け死んだ人達は、母の話だと50万~80万人はいたとも聞かされています。

その後戦争から何もかも失った日本の復興が始まったわけですが、兵隊に駆り出されて無事戻ることの出来た若い男性たちはどんどん結婚していくようになった、ともこれも母の記憶から聞いています。

まだ戦争が終わって何年もたっていませんし、焼け野原だってまだ結構残っていた状態で、若い男性がどんどん結婚していったのは一体どんな理由があったのでしょうか?

母から聞いた話では、日本は戦争で多くの人が亡くなったので、若い男性には結婚して子供を設けて欲しいような風習がありました。1歳でも若ければ、子供も早く作れるような意味合いが込められていました。

子供を作ることによって、人口を増やすってことでしょうか?しかし貧乏のどん底でまだ仕事もないのに、結婚して子供を設けることなど当時としては酷だったのではないかという気がしました。

ですが日本には昔から「お見合い結婚」の習慣があり、親の決めた男性と女性が結婚することなど当たり前でした。ですから独身男性は親のいいつけでどんどんお見合いしては、結婚していきました。

一方の若い女性の方も、親の決めた男性と結婚すると言ったことが多かったです。10代後半からどんどん縁談の話があれば、結婚へとトントン拍子で決まっていきました。

現代では絶対あり得ないことですが、終戦直後のこの時代は親の決めた相手と結婚させられるのは日常茶飯事のことでした。

母の告白では「あの頃の女性は子供を沢山産むことを強要されてたようなものだ。」と何とも衝撃的に聞こえました。じゃあ子供を産むだけのために、相手の男性がどんな人なのかもよく知らないままで結婚させられたってことになります。

いくら戦争に負けたからと言って、結婚を急がせるなんてそれは余りにも納得出来ないですね。ですが結婚相手を決めていたのは、祖父母世代ってことになります。

結婚適齢期を逃さないために、戦争から無事戻って来れた若い男性はいかにお見合い結婚を急がされたとも取れます。

そして女性の方は1歳でも若いうちに沢山子供を産む役割を果たすことになっていたんですね。全然恋愛云々と言ってる場合ではなかったとよく分かりました。

親世代の子供時代って?兄弟の人数が何処も多くて当たり前だった!

最近は子供の数がどんどん減っていくことが当たり前のように耳にすることが多くなりましたが、私の親世代、もっとさかのぼると祖父母世代は兄弟の数は多かったものです。

特に祖父母世代は明治時代、大正時代、昭和時代の初期でしたので、人世帯の家族の人数は何処でも10人以上と言うのは、珍しくはありませんでした。

年令差も一番上と末っ子は親子差年齢程あったくらいです。ですから大きい兄や姉は小さい弟や妹の面倒を両親に変わってみていた、とも聞かされています。現代の様に物に溢れたわけではありませんでしたから、赤ちゃんのいる家庭など、布おむつの洗濯なども大きい兄や姉がしていた光景もよく見られたそうです。

ですから子供同士で協力し合って、両親の手助けなどもしていたわけです。その祖父母の間に生まれた私の父や母世代も兄弟は多かったですね。まず少なくても5人は子供を産んでいたわけです。

親世代でも父方は6人、母方は4人でした。ですが私の母方の兄弟は2人幼いころに病死したり、死産だったと聞かされました。

私の両親の子供時代は、太平洋戦争(第二次世界大戦)の真っただ中でした。父は家族と離れて田舎へ疎開し、母は家族と共に毎日落ちてくるアメリカ飛行艇B29の爆弾に怯えつつも、生きるか死ぬかの人生をおくっていました。

戦争中のそんな恐ろしい時代の中でも、兄弟が多かったお蔭で、家族全員助け合って何とか生き延びる知恵を考えていたのです。そんな祖父母たちは戦争でどんどん家や農作物を燃やされていく中でも、子供達を飢え死にさせてはいけないと、食べられるものは何でも取って応急処置として食べさせていたんですね。

それでも栄養失調で子供を亡くしてしまった家庭も多く、いかに戦争が恐ろしくて簡単に人間の命を奪っていく有様を目にしていた祖父母やまだ小さかった私の父や母はどんな思いをしていたかと思うと胸が押しつぶされそうです。

それでも親世代は兄弟が多かったお蔭で、お互い助け合う気持ちや絆は強かったといえます。小さい弟や妹の面倒を見ることは、本当に当時としては当たり前だったんですね。祖父母からしてみれば、沢山の子供達が手助けをしてくれてどんなに心強かったでしょう。

どんなに貧しくても、何処の家庭でも子供の人数は5人以上が当たり前だったとは本当に今の時代では考えれらないくらいです。

子供だった私の父や母は、戦争の最中いつもお腹をすかせていました。小学生で食べ盛りでしたから、満腹感を感じたことなどなかったと聞かされています。それでも一生懸命子育てしていた祖父母は自分たちは食べられなくてもいいから、せめて子供達だけでも十分食べさせて行けるようにと、配給された食べ物を子供達に回していました。

どんなに辛くても、子供たちにはひもじい思いをさせたくない…それが祖父母の思いであり、凄く苦労してきたことがありありと分かりました。

昭和20年(1945年)8月15日、日本は戦争に負けて何もかも無くしてしまいましたが、家族、兄弟の絆は失われることはありませんでした。それは子供の数が多かったからこそ言えることです。